彼岸

膝小僧 丸め込み、まあるい井戸の向こう側、

潜り込み 手を開く。固く眼 瞑って――

 

百年に一度だけ光る 暗がりに 水が溢れ出す。

 

遠くの手を そっと 握る。

「ここはとても寒い、よ」

暗がりの河 渡り、日照りの中 彷徨って――

 

行かなくちゃ。笛が、僕を呼ぶ。

真昼の月 思い出す。

 

でも、こうして、

 また、こうして、

ただ、こうして、

 まだ、こうして――いたいよ。

 

声が 出ない。目も、視えない。

 

えェ おォ 天乃原 ゆるり ゆるり流れて、

 えェ おォ 天の川 遠くに ひら ひらり。

でェ おォ 天つ風 両手に 両手に集めて、

 でェ おォ 怖くない。

 

もう 一人じゃなァい。

 

雨は降り、草活きれ まあるい僕を包むよ。

土を掻き、天地を 手探りして うえ した

 

判らずに、遠い邦 想う。メコン川 越えて、今 飛ぶよ。

 

君はどこ。ここはどこ。夏が薫る 闇夜に、

あの時の僕が 今、雪洞 握り締める。

 

――もう やめなくちゃ。こんな 繰り返し。

深緑 血潮 滲む。

 

でも、こうして、
 また、こうして、
ただ、こうして、
 まだ、こうして――いたいよ。

お還りなさい、私の空へ。

えェ おォ 天乃原 ゆるり ゆるり流れて、
 えェ おォ 天の川 遠くに ひら ひらり。
でェ おォ 天つ風 両手に 両手に集めて、
 でェ おォ 怖くない。

 

もう 一人じゃなァい。

 

えェ おォ 天乃原 ゆるり ゆるり流れて、
 えェ おォ 天の川 遠くに ひら ひらり。
でェ おォ 天つ風 両手に 両手に集めて、
 でェ おォ 怖くない。

もう 一人じゃなァい。

 

もう 独りじゃないよ。

 

(PENGUINS PROJECT「蛍」より)

 

☆私の見解

・故郷で死ねなかった「僕」が、「君」に時の間で導かれる。

・「僕」はすでに死んでいて、独りで無念の死を遂げたため、成仏することが出来ないでいる。

・「君」に抱かれた「僕」は孤独から抜け出ることが出来、報われた心持ちで天に昇っていく。

 

☆表現とレトリック

「君」

→難解。人智を超えたもの、所謂神だろうか。

 

百年に一度だけ光る 暗がりに水が溢れ出す

→難解。百年は人の寿命を表すか。光や溢れ出す水が希望や好機を意味するとすれば、「君」と「僕」が逢い合う、またとない機会を意味する一文と捉えられそうだ。

 

笛・真昼の月

→Bに関する記憶の断片、あるいは道標。「君」からの手引きとも考えられる。

 

声が出ない、目も視えない

→Bが絶望という名の日照りや孤独という名の暗闇の中にいることを表すか。日照りによって喉は涸れ、暗闇にずっといる所為で何も見えてはいない。それでも彼は誰か(もしくはなにか)を求め、そこを彷徨い続けている。

 

えェ、おォ でェ おォ

→Bの、暗闇を抜け出ることが出来た言葉にならない喜びを表すオノマトペ。視覚は失われているものの草原を通り抜ける風とその風の音や、遠くに聞こえる河のせせらぎをありありを感じている。むしろ視覚が失われているからこそ、それらをよりはっきりと感じられているとも云える。

 

まあるい僕を包むよ

→「僕」自身が蛍の姿になっている、もしくは、蛍に自分を重ね合わせているか。「僕」は必死にあがき続け、「魂の帰る場所」を求める旅に出る。

 

もうやめなくちゃ

→死にきれずにこの世に留まる決まりの悪さを自分でも理解してはいるものの、何かが閊えて成仏も出来ていない。その答えと「魂の還る場所」を探すあてどもない旅を続けてしまう。深緑と血潮は自然の緑の中に不自然に映える「僕」の生命としての赤色の対比であり、「僕」の状況や心中を鮮やかに描き出している。

 

お還りなさい、「私」の空へ

→「私」は「君」の正体であり、神のような存在であろうか。あるいは先になくなったBの肉親やたいせつな人かもしれない。彷徨い続けるBを見かねて、Bが天に辿り着けるよう誘導したのだろうか。

 

もう独りじゃないよ

→「僕」が探し求めていたものの発見と「僕」の旅の終わりを表す。「僕」が求めていたものとは、場所なのか、人なのか、あるいは別の何か、か。読み手の価値観により意見が分かれそうだ。

 

彼岸

 お盆に田舎の実家に帰省して、暑いなァ、と思いながらテレビを見ていたら、お盆はご先祖さまに感謝するだけでなく、自分や家族の終活(最期までに身辺整理をしておくこと)についても考える良い機会だ、と云っているのを見て、妙に納得してしまいました。日常で故人の想い出を話すというのは気が引ける場合もありますし、そうすることで気が滅入ってしまうこともありますが、お盆という時空においてはそうしやすい力を持っているのかもしれません。普段は実存に寄りすぎて話せない終活についても、語り出す口実やきっかけになり得るのではないでしょうか。もしかしたら家族の意外な価値観が見えてきたり――ひょっとすると、自分についての認識が深まるいい機会になるかもしれません。そう考えると、宗教が持つ力というのは意外に現代にも息づいているのだな、と感じてしまったり。

 本詞は非常に難解で、まとめているうちに、初めに考えた仮説に幾つも修正を加えねばなりませんでした。一応文脈を踏まえて解釈したつもりですが、いつもにまして自信がないというか(汗)まだまだ精進が必要ですが、いつかはその奥行きを感じられる人間になりたいものです。

 

2018年8月22日 ばろっくどーなつ