普通

昔、むかし あるところに おじいさんとおばあさんが、

小さな家で つつましく暮らしていました。

 

川で洗濯しているとき 大きな桃が流れてきたり、
山で柴刈りしているとき 輝く竹を見つけたり、
・・・なんてこともなく、平穏な毎日を過ごしていました。

 

同じ家に住んで、同じ米を食べて。
ドラマチックな出来事など、一つもない けれど、
それは、二人にとって 素敵な物語。

 

おやすみ。めでたし、めでたし。

 

昔、むかし あるところに おじいさんとおばあさんが、

小さな家で つつましく暮らしていました。

 

助けた亀に連れられて 竜宮城へ行ってみたり、
殿様の前で、美しく 枯れ木に花を咲かせたり、
・・・なんてこともなく、ありふれた毎日を 過ごしていました。

 

ともに年を重ね、皺の数も増えて。
振り返っても、足跡さえ 残ってないけれど。
それは、二人にとって 素敵な物語。

 

おはよう。はじまり、はじまり。

 

Φ

 

落とし物は捜さずに、
見返りは求めずに。
ほんの ささやかな幸せ、分かち合って 歩いてきました。

 

あの日 出逢えたこと、互いを 愛したこと。
ドラマチックな出来事など、望んでない けれど、
どうか 二人にそっと 穏やかな毎日を。
最期の 眠りに就く日まで。

 

おやすみ。めでたし、めでたし。

 

(40mP「誰も知らないハッピーエンド」より)

 

☆私の見解

・Aは誰かに自分の両親の話を教えてもらった。

・そのありふれた、別段変わったこともない話は何故か分からないがAの心に残った。

・Aは両親を見ているうちに、そのありふれた日々にこそ幸せがあったと思うようになる。同時に、そうした両親の元に生まれることが出来た自分に誇りを持てるようになる。

・Aはこれからも二人に幸せな日々が訪れるよう願っている。

 

※PV版

・Aは、ある夫婦が何事もなく幸せに暮らす、他とは違って面白みのないストーリーの本を見つける。

・なんとなくページをめくっていると突然その本の世界に迷い込む。

・そこでその夫婦の様々なことを知り、何か特別なことが起きなくても彼らが本当に幸せだったことを理解する。

・その本の真相を知ることが出来たAはそのストーリーを肯定的に捉えることが出来た。

 

☆表現とレトリック

昔話のパロディ

・桃太郎

かぐや姫

・浦島太郎

・花咲かじいさん

・おむすびころりん

・つるの恩返し

 

おやすみ。めでたし、めでたし。(1回目)

→誰かから話を聞かせてもらっている。このときAはこの話にたいした関心を抱いていない。

 

おはよう。はじまり、はじまり。

→何かの拍子に以前聞いた話を思い出し回想を始める。

 

おやすみ。めでたし、めでたし。

→この話の真相や意図に気づくことができ、肯定的な気分で回想を終えられている。

 

平穏な↔ありふれた

→聞いた話ではニュートラルな表現になっているが、私の回想では「ありふれた」とやや否定的な表現になっている。後半、こうした私の心情が変化していく。

 

振り返っても足跡さえ残ってないけれど、誰も知らないハッピーエンド

→二人の過ごした時間や日々が、他者から見ればたいした評価を得られないもので、二人だけの記憶のみに留まっているということ。

 

一つもない↔望んでない

→一つもない、は、謙遜、あるいは自虐か。Aは、話の真相や意図を踏まえ、これからもドラマチックな出来事は起こらずとも、二人が築き上げてきた「しあわせ」な日々が続いてほしいと願っている。

 

普通

 平和は状態を表すものであるのに対し、戦争は出来事であるから、平和を享受している人たちに平和であるという特別肯定的な捉え方は難しいのだ、というような評論を読んだことがあります。たしかに。ヒトというのは同じ状態にいるより変わり続けることに価値を見いだしたがりですから(まァ、同時に動き始めるのには面倒くささを感じる腰の重さもありますが・・・勿論私を含め。)、平和であることはこの上ない幸福なことだとしても、そうだ、と納得して享受し続けるのは難しいのかもしれません。どうしても、今居る場所が「あたりまえ」だと錯覚してしまうのです。これは勿論、平和と戦争だけの話ではありません。ただ、肝腰なのは気づかないことではなく、気づいていないことに自覚的であること、ではないでしょうか。だから、自分とは違う状況や境遇にいる他者と触れ合い、自分の位置を見つめ直す修正作業をいい塩梅の頻度で行うべきなのでしょう。

 40mPさんの、当たり前のようでなかなか気づけない「ちいさな幸せ」に気づく歌や歌詞が、ホントに好きで。「春に一番近い街」もそうなんですが、理解するより前に納得してしまっているような、そんな気がしてしまいます。しあわせというのは、ありふれた日々にも、不幸の中にさえもあって、それに気づける人こそ、豊かであると言って差し支えないでしょう。

 

2018年8月19日 ばろっくどーなつ