彼岸

膝小僧 丸め込み、まあるい井戸の向こう側、

潜り込み 手を開く。固く眼 瞑って――

 

百年に一度だけ光る 暗がりに 水が溢れ出す。

 

遠くの手を そっと 握る。

「ここはとても寒い、よ」

暗がりの河 渡り、日照りの中 彷徨って――

 

行かなくちゃ。笛が、僕を呼ぶ。

真昼の月 思い出す。

 

でも、こうして、

 また、こうして、

ただ、こうして、

 まだ、こうして――いたいよ。

 

声が 出ない。目も、視えない。

 

えェ おォ 天乃原 ゆるり ゆるり流れて、

 えェ おォ 天の川 遠くに ひら ひらり。

でェ おォ 天つ風 両手に 両手に集めて、

 でェ おォ 怖くない。

 

もう 一人じゃなァい。

 

雨は降り、草活きれ まあるい僕を包むよ。

土を掻き、天地を 手探りして うえ した

 

判らずに、遠い邦 想う。メコン川 越えて、今 飛ぶよ。

 

君はどこ。ここはどこ。夏が薫る 闇夜に、

あの時の僕が 今、雪洞 握り締める。

 

――もう やめなくちゃ。こんな 繰り返し。

深緑 血潮 滲む。

 

でも、こうして、
 また、こうして、
ただ、こうして、
 まだ、こうして――いたいよ。

お還りなさい、私の空へ。

えェ おォ 天乃原 ゆるり ゆるり流れて、
 えェ おォ 天の川 遠くに ひら ひらり。
でェ おォ 天つ風 両手に 両手に集めて、
 でェ おォ 怖くない。

 

もう 一人じゃなァい。

 

えェ おォ 天乃原 ゆるり ゆるり流れて、
 えェ おォ 天の川 遠くに ひら ひらり。
でェ おォ 天つ風 両手に 両手に集めて、
 でェ おォ 怖くない。

もう 一人じゃなァい。

 

もう 独りじゃないよ。

 

(PENGUINS PROJECT「蛍」より)

 

☆私の見解

・故郷で死ねなかった「僕」が、「君」に時の間で導かれる。

・「僕」はすでに死んでいて、独りで無念の死を遂げたため、成仏することが出来ないでいる。

・「君」に抱かれた「僕」は孤独から抜け出ることが出来、報われた心持ちで天に昇っていく。

 

☆表現とレトリック

「君」

→難解。人智を超えたもの、所謂神だろうか。

 

百年に一度だけ光る 暗がりに水が溢れ出す

→難解。百年は人の寿命を表すか。光や溢れ出す水が希望や好機を意味するとすれば、「君」と「僕」が逢い合う、またとない機会を意味する一文と捉えられそうだ。

 

笛・真昼の月

→Bに関する記憶の断片、あるいは道標。「君」からの手引きとも考えられる。

 

声が出ない、目も視えない

→Bが絶望という名の日照りや孤独という名の暗闇の中にいることを表すか。日照りによって喉は涸れ、暗闇にずっといる所為で何も見えてはいない。それでも彼は誰か(もしくはなにか)を求め、そこを彷徨い続けている。

 

えェ、おォ でェ おォ

→Bの、暗闇を抜け出ることが出来た言葉にならない喜びを表すオノマトペ。視覚は失われているものの草原を通り抜ける風とその風の音や、遠くに聞こえる河のせせらぎをありありを感じている。むしろ視覚が失われているからこそ、それらをよりはっきりと感じられているとも云える。

 

まあるい僕を包むよ

→「僕」自身が蛍の姿になっている、もしくは、蛍に自分を重ね合わせているか。「僕」は必死にあがき続け、「魂の帰る場所」を求める旅に出る。

 

もうやめなくちゃ

→死にきれずにこの世に留まる決まりの悪さを自分でも理解してはいるものの、何かが閊えて成仏も出来ていない。その答えと「魂の還る場所」を探すあてどもない旅を続けてしまう。深緑と血潮は自然の緑の中に不自然に映える「僕」の生命としての赤色の対比であり、「僕」の状況や心中を鮮やかに描き出している。

 

お還りなさい、「私」の空へ

→「私」は「君」の正体であり、神のような存在であろうか。あるいは先になくなったBの肉親やたいせつな人かもしれない。彷徨い続けるBを見かねて、Bが天に辿り着けるよう誘導したのだろうか。

 

もう独りじゃないよ

→「僕」が探し求めていたものの発見と「僕」の旅の終わりを表す。「僕」が求めていたものとは、場所なのか、人なのか、あるいは別の何か、か。読み手の価値観により意見が分かれそうだ。

 

彼岸

 お盆に田舎の実家に帰省して、暑いなァ、と思いながらテレビを見ていたら、お盆はご先祖さまに感謝するだけでなく、自分や家族の終活(最期までに身辺整理をしておくこと)についても考える良い機会だ、と云っているのを見て、妙に納得してしまいました。日常で故人の想い出を話すというのは気が引ける場合もありますし、そうすることで気が滅入ってしまうこともありますが、お盆という時空においてはそうしやすい力を持っているのかもしれません。普段は実存に寄りすぎて話せない終活についても、語り出す口実やきっかけになり得るのではないでしょうか。もしかしたら家族の意外な価値観が見えてきたり――ひょっとすると、自分についての認識が深まるいい機会になるかもしれません。そう考えると、宗教が持つ力というのは意外に現代にも息づいているのだな、と感じてしまったり。

 本詞は非常に難解で、まとめているうちに、初めに考えた仮説に幾つも修正を加えねばなりませんでした。一応文脈を踏まえて解釈したつもりですが、いつもにまして自信がないというか(汗)まだまだ精進が必要ですが、いつかはその奥行きを感じられる人間になりたいものです。

 

2018年8月22日 ばろっくどーなつ

普通

昔、むかし あるところに おじいさんとおばあさんが、

小さな家で つつましく暮らしていました。

 

川で洗濯しているとき 大きな桃が流れてきたり、
山で柴刈りしているとき 輝く竹を見つけたり、
・・・なんてこともなく、平穏な毎日を過ごしていました。

 

同じ家に住んで、同じ米を食べて。
ドラマチックな出来事など、一つもない けれど、
それは、二人にとって 素敵な物語。

 

おやすみ。めでたし、めでたし。

 

昔、むかし あるところに おじいさんとおばあさんが、

小さな家で つつましく暮らしていました。

 

助けた亀に連れられて 竜宮城へ行ってみたり、
殿様の前で、美しく 枯れ木に花を咲かせたり、
・・・なんてこともなく、ありふれた毎日を 過ごしていました。

 

ともに年を重ね、皺の数も増えて。
振り返っても、足跡さえ 残ってないけれど。
それは、二人にとって 素敵な物語。

 

おはよう。はじまり、はじまり。

 

Φ

 

落とし物は捜さずに、
見返りは求めずに。
ほんの ささやかな幸せ、分かち合って 歩いてきました。

 

あの日 出逢えたこと、互いを 愛したこと。
ドラマチックな出来事など、望んでない けれど、
どうか 二人にそっと 穏やかな毎日を。
最期の 眠りに就く日まで。

 

おやすみ。めでたし、めでたし。

 

(40mP「誰も知らないハッピーエンド」より)

 

☆私の見解

・Aは誰かに自分の両親の話を教えてもらった。

・そのありふれた、別段変わったこともない話は何故か分からないがAの心に残った。

・Aは両親を見ているうちに、そのありふれた日々にこそ幸せがあったと思うようになる。同時に、そうした両親の元に生まれることが出来た自分に誇りを持てるようになる。

・Aはこれからも二人に幸せな日々が訪れるよう願っている。

 

※PV版

・Aは、ある夫婦が何事もなく幸せに暮らす、他とは違って面白みのないストーリーの本を見つける。

・なんとなくページをめくっていると突然その本の世界に迷い込む。

・そこでその夫婦の様々なことを知り、何か特別なことが起きなくても彼らが本当に幸せだったことを理解する。

・その本の真相を知ることが出来たAはそのストーリーを肯定的に捉えることが出来た。

 

☆表現とレトリック

昔話のパロディ

・桃太郎

かぐや姫

・浦島太郎

・花咲かじいさん

・おむすびころりん

・つるの恩返し

 

おやすみ。めでたし、めでたし。(1回目)

→誰かから話を聞かせてもらっている。このときAはこの話にたいした関心を抱いていない。

 

おはよう。はじまり、はじまり。

→何かの拍子に以前聞いた話を思い出し回想を始める。

 

おやすみ。めでたし、めでたし。

→この話の真相や意図に気づくことができ、肯定的な気分で回想を終えられている。

 

平穏な↔ありふれた

→聞いた話ではニュートラルな表現になっているが、私の回想では「ありふれた」とやや否定的な表現になっている。後半、こうした私の心情が変化していく。

 

振り返っても足跡さえ残ってないけれど、誰も知らないハッピーエンド

→二人の過ごした時間や日々が、他者から見ればたいした評価を得られないもので、二人だけの記憶のみに留まっているということ。

 

一つもない↔望んでない

→一つもない、は、謙遜、あるいは自虐か。Aは、話の真相や意図を踏まえ、これからもドラマチックな出来事は起こらずとも、二人が築き上げてきた「しあわせ」な日々が続いてほしいと願っている。

 

普通

 平和は状態を表すものであるのに対し、戦争は出来事であるから、平和を享受している人たちに平和であるという特別肯定的な捉え方は難しいのだ、というような評論を読んだことがあります。たしかに。ヒトというのは同じ状態にいるより変わり続けることに価値を見いだしたがりですから(まァ、同時に動き始めるのには面倒くささを感じる腰の重さもありますが・・・勿論私を含め。)、平和であることはこの上ない幸福なことだとしても、そうだ、と納得して享受し続けるのは難しいのかもしれません。どうしても、今居る場所が「あたりまえ」だと錯覚してしまうのです。これは勿論、平和と戦争だけの話ではありません。ただ、肝腰なのは気づかないことではなく、気づいていないことに自覚的であること、ではないでしょうか。だから、自分とは違う状況や境遇にいる他者と触れ合い、自分の位置を見つめ直す修正作業をいい塩梅の頻度で行うべきなのでしょう。

 40mPさんの、当たり前のようでなかなか気づけない「ちいさな幸せ」に気づく歌や歌詞が、ホントに好きで。「春に一番近い街」もそうなんですが、理解するより前に納得してしまっているような、そんな気がしてしまいます。しあわせというのは、ありふれた日々にも、不幸の中にさえもあって、それに気づける人こそ、豊かであると言って差し支えないでしょう。

 

2018年8月19日 ばろっくどーなつ

黄昏

降り注いだ 冷たい雨、青い傷を 溶かしていった。
いつか見ていた 夕暮れ空の 隅っこで笑う 誰かが居た。

 

気づかないうちに オトナになって、
綺麗な嘘 口に出来るほど、
いろんな痛みを覚えてきたけど、
それでも、まだ 痛いんだ。

 

夕暮れの、涙が出そうな 赤。
私の中の君を 溶かして しまえ。

 

Φ

 

私の身体中 君の傷跡で あふれているから、もう 進めない、よ。

 

ねぇ、消えて。
消してよ。
そう、願っていたのに、

 

どうして こんなにきつく 抱き締めているの?

 

Φ

 

君の声が遠くなる、呑み込まれそうな 赤。
きっと このまま 君を溶かして、夜になるだけ。

 

淡く染まる指先に、零れ落ちそうな 赤。
私の中の君を 奪ってしまう。

 

ちぎれていく 雲間から、あふれだす 涙。
少しずつ滲む 君に、ぎゅっと しがみついた。

 

(keeno「glow」より)

 

☆私の見解

・「私」と「君」は、はなればなれになる。

・「私」は夕暮れを前に、「君」のかけがえのなさに気づく。

・「私」はありのままの自分に、どうしようもないほど素直になる。

 

☆表現とレトリック

冷たい雨

→不意に降り出した「私」にとって、不幸とも幸いとも呼べる雨。「私」は冷たいと感じているが、悲しみに寄り添う意味で慰めとなり、「私」を冷静にさせてもいる。後に訪れる夕焼けの赤を際立たせる。

 

青い傷

→青は、不完全性や若さを表す。少なくとも「私」は、青い、と捉えていて、どこか恥ずべきものを感じる過ちと考えられる。

 

夕暮れ空の隅っこで笑う誰か

→以前の「私」と「君」の微笑ましい想い出。今となっては「私」に辛さをかき立てるものである。

 

夕暮れ・赤

→夕暮れは、一日の終わりである。本詞では「私」に「君」と、「君」との別れを感じさせるものでもある。「私」は少しずつ沈んでいく夕焼けにだんだん気持ちが変化していく。

 

君の傷跡

→「君」との複雑な味わいのあるかけがえのない想い出だろうか。他者から見れば肯定的に捉えられなくても、「私」からすれば自らを支える拠り所である。別れによりこれらは「私」のこころを辛くさせる。

 

淡く染まる指先

→君との別れに、手を伸ばして受け止めようとしている。その甲斐虚しく、夕焼けはどんどん沈んでいく。

 

溶かしてしまえ(涙が出そうな赤)→きっとこのまま君を溶かして夜になるだけ(呑み込まれそうな赤)→私の中の君を奪ってしまう(零れ落ちそうな赤)→少しずつ滲む君にぎゅっとしがみついた(ちぎれていく雲間からあふれ出す涙)

→冷静とも、投げやりとも思える心情から、君のことを忘れる、あるいは振り切ろうとしているが、夕焼けの前から動き出すことが出来ない。そこで改めて、「君」の存在と「君」との想い出が「私」と不可分になってしまっていることに気づく。それでもやがて忘れゆく、色褪せゆくであろう別れに儚さを感じとり、もう届かない君の面影を抱き締めている。「私」は夕焼けの赤にすべてを擲げこもうとしたが、その赤は自分のうちに押さえ込もうとしていた感情そのものであろう。

 

黄昏

 きーのさんとの出会いはとある歌い手さんのアルバムに入っていた「crack」を聴いた時でした。「嫌、だよ。この糸の先には、君以外居ちゃ、いやだ。」と、感情が炸裂したかのような歌詞があるんですが、勿論歌い手さんの歌もさすがなんですが、こういうストレートな気持ちを心に響かせるあたり、素晴らしい表現力だな、と偉そうに思ってしまいました(笑)

 きーのさんといえば、やはり歌詞に出てくる色の表現と失恋と傷の表現抜きでは語れないでしょう。失恋と傷に関してはまたどこかで言うとして、やはり色。人はイメージする際に意外と色に関するウエイトは大きくて。きーのさんの楽曲にグッと引き寄せられる引力があるのはこの色の使い方が絶妙だからなのかな、と思ってしまいます。

 正直云うと、「glow」は最初ピンとこなくて、あんまり聴いていませんでした(笑)ただ、それでもカラオケなんかで歌っていると(DAMには入ってないので稀に選ぶJOY機種で稀に歌っていました)、妙に心地よく力が入るので不思議だな、と。確かに聴いて、そのファーストインプレッションってとてつもなく大事なんですが、それだけではないんですよね。まァ、感性豊かな人ならば初見でそこまで見抜く洞察力があるのかもしれませんが、私はニブチンですから(笑)これからも聴いて歌って、謙虚に味わっていこうかな(苦笑)

 

2018年8月12日 ばろっくどーなつ

 

微力

涙があふれた。

 涙があふれた。

君のこと 好き、と 云えずに、ゴメン。

 

夜空が にじんだ。

 夜空がにじんだ。

君のこと 好き、と云えずに、ゴメン。

 

ムズカシイ言葉なら、考えつくけど、タヤスイ言葉の方が 云えない、って 思う。

 

ため息をついた。

 ため息をついた。

君のこと 好き、と 云えずに、ゴメン。

 

星屑がおちた。

 星屑が おちた。

君のこと 好き、と 云えずに、ゴメン。

 

ムズカシイ言葉なら、考えつくけど、タヤスイ言葉の方が 云えない、って 思う。

 

涙があふれた。

 涙があふれた。

涙があふれた。

 涙があふれた。

 

こんなことも云えないで、ゴメン。

 

(ストロベリー・フラワー「涙があふれた」より)

 

☆私の見解

・Aは、「君」ともう会えなくなってしまった。

・Aは、「君」に自分のたいせつな気持ちを、言葉にして伝えることが出来なかった。

・Aは、「君」が居ないこの場所で、自分に素直になる。

 

☆表現とレトリック

夜空がにじんだ

→目に涙が溜まっている所為で、夜空がよく見えない。

 

ゴメン

→単に告白が出来なかったのならば、謝りたい気持ちにはならない。とすれば、「告白できなかったこと」が「君」との別れを不本意なものにしたのではないだろうか。Aは今でも、告白が出来なかったことを後悔していると考えられるだろう。

 

ムズカシイ言葉↔タヤスイ言葉

→ムズカシイ言葉は、今までAが信用してきた言葉、あるいは、価値を感じていた論理的で知的な言葉。タヤスイ言葉は、主観的で、直截的で、Aにとっては価値を見いだし得ず、羞恥さえ感じていた幼稚な言葉。Aは「君」との不本意な別れにより、こうした考えが少しだけ、それでもたいせつな差異が更新された。

 

星屑がおちた

→星の最期。Aと「君」との別れを思い出しているのではないだろうか。

 

こんなこと

Aは、意識的か無意識的かは判らないが、「君」に好きだ、と言うことがいつでも出来る、簡単でそれほど重要でないことだと捉えていた。そして今、それすら出来なかった自分の微力さを噛み締め、もう届かない「好き」と「ゴメン」を言葉にしている。

 

涙があふれた

→君に対する申し訳なさと、自分の矮小さを感じた。だから泣いたのではないだろうか。

微力

 中学校の掲示板に「我々は無力ではない、微力なのだ。」という言葉が書いてあるのを見てから、それが今でも、忘れられません。他者から好きな言葉は何かと訊かれると、真っ先に思い出す言葉がこれなんですが、まァ、失笑ですね(苦笑)。人間の知恵と技術と科学が至上のものとされて近代化が進められて後、戦争・紛争や公害や、いくつかの自然災害なんかが起こって、やっぱりヒトってそこまで強くないと思う人は少なからず居ると思うのですが、そういう経緯がなければ、そんな当たり前のことに気づかなかったり、あるいは気づけなかったりするというのは、それもある種、人が微力だと言うことを感じさせてくれます。せいぜい生きられても百歳だし、がんばっても一馬力だし、病気にはなるし、騙されるし、テスト勉強はがんばれないし、ちょっとしたことでイライラするし、簡単に諦めるし。「人は考える葦」とはよく言ったものです。

 ただ、微力である、ということは、それを積み重ねれば力になり得る、と言うことでもあります。おそらくこの言葉に関して私と冷笑う他者とで見解が分かれるのは、私が彼らと違う視点に居るからなのでしょう。漫画や小説で、弱いと判っているけど、ちっぽけな勇気を出して何かに立ち向かうキャラクターが好きで。どん底にいても上を向いて星に気づけるのは、今までの人生を踏まえて、本当の意味で自分を肯定できるかどうかにあるのではないでしょうか。尊敬できる人に出会えること、今まで成し遂げてきたこと、誰かからたいせつにしてもらったこと、誰かから愛されたことーーそういうあたたかなものを所有し、それらに意識的である人は豊かであり、人間らしい人と思えてなりません。過言ではありますが、私はそれこそ強さ、なのかな、と考えています。

 本詞でも、Aが自分自身を微力であることを痛感しています。そこで、自らの気持ちに素直になり、謝る気持ちになれるということは、確かな成長だと私には感じられるのです。勿論微力を積み重ねる上で、また別の思い上がりも生じてくるのでしょうが、一度そういう経験をした人なら、手遅れになる前に自分で、あるいは周りの誰かから道に気づくよう施してもらえるのだと、なんとなくそう感じてしまいます。

 

2018年8月11日 ばろっくどーなつ

架橋

通り道、帰り道。どこまでも続くような 橋の上。

渡れたら、忘れたら。

知らない 遠い何処かへ 行けたら。

 

誰かの所為 だとか、誰かのため だとか、

繰り返し くりかえし、君は嘯いて、

昨日を投げ捨てて、明日を諦めたように、また閉じた瞼の裏側ーー

 

百万色に砕けた 君のかけら。

まるで星のように、瞬きを繰り返した。

 

百万色のモノクロに色褪せた いつか見た夢を

今でもパレットに、ならべて描く。

この虚ろで、鮮やかな 世界のすべて。

 

通り雨、俄雨。いつの間に降り始めた 橋の上。

戻れたら、思い出せたら。

傘の差し方と、なにか だいじなもの。

 

空を仰いでみた。誰か思ってみた。

繰り返し、くりかえし、そして 俯いて。

微かに残るような 少し痛みに似た なにか、

握り潰した 手のなか、

 

百万色に壊れた 君のかけら。

まるで砂のように、指の隙間 擦り抜けた。

百万色のモノクロに彩られた 君が生きる意味。

今でも パレットに描き続ける。

この虚ろで 鮮やかな、世界のすべて。

 

Φ

 

百万色に砕けた 君のかけら。

まるで星のように 瞬きを繰り返して、

百万色のモノクロに彩られたーー

 

百万色に壊れた 君のかけら。

まるで星のように、音もなく 輝いて。

百万色のモノクロが、色になる。

いつか見た 色に。

今でも、パレットにならべて、描く。

 

この不完全で、

完全な 世界のすべて。

 

(ナタ「1000001colors」より)

 

☆私の見解

・Aは、「君」とのあの日を、何度も思い出してしまう。

・あの日とは、「君」が抱えた悩みを抑えきれず、Aに涙を見せた日であり、Aにはなぜ「君」が泣いたのか、判れなかった。ただ、「君」の流した涙は、Aには忘れられないくらいきれいなものに見えた。

・Aは今も、あの日を思い返しては、「君」の涙の理由を探し続ける。何か判りそうで、捉えあぐねる。

・Aは何度も繰り返した螺旋の中で、あるときふと、「君」のこころとシンクロする。「君」とのあの日が、まるで今起こっている出来事のように、色鮮やかに思い出される。

・Aは今、あの日の「君」を作品にしている。Aだけのイメージが、あの日の「君」の想いが誰かに伝わるように、あるいは、自分が納得のいくくらいこの作品に表現できるように。

 

☆表現とレトリック

→Aと「君」のこころをつなぐ思い出や記憶。Aは無意識のうちにここに居て、あの日の真相を知りたがっている。

 

昨日を投げ捨てて、明日を諦めたようにまた閉じた瞼

→「君」があらゆる手を尽くした上で達した絶望を形容している。今までの努力が一切報われず、自分ですらそれらに意味を見いだせなくなってしまった。

 

君のかけら

→君の流した涙の一粒一粒。これらはなぜかAにどうしようもなく美しく見えた。

 

通り雨、俄雨

→あの日を思い出すことで生じるストレスや悲しみで、「君」の涙でもある。これが妨げとなり、Aは橋を渡りきれずにいる。

 

モノクロ

→あの日の不完全な想起。

 

パレットに描き続ける

→実際に絵を描いている、あるいは、この歌を作っていることの比喩か。

 

この虚ろで鮮やかな世界のすべて

→「あの日」を完全に思い出せないことへのわびしさと、それでも美しいと思えてやまない僕の主観が入っている。

 

ーー(ダッシュ

→まさに今、歌を作っているこの瞬間にあの日を完全に思い出す。Aの目にも涙が流れる。橋を渡りきり、あの日の「君」の涙の真相に辿り着く。Aと「君」に虹の架け橋が架かる。

 

この不完全で、完全な世界のすべて、1000001colors

→「君」を判り得た今も、Aは自分の心の外に表現できるように、誰かに伝わるようにあの日を描き続ける。心に残る百万色の完全な思い出を、不完全であるからこそ限りのないこの世のあらゆる色を使って、それ以上に鮮やかに描けるように。

 

架橋

 橋は、何かと何かをつなぐ、文字通り端と端を繋ぐ性質を持っています。小説や映画などの場面で出てきたときは特に注意して読んでみると良いでしょう。感性豊かな物書きであれば、そこに何らかの意図を持たせているはずです。本詞の冒頭、Aが橋にいるのは、無意識に「君」の心情を理解しようとしているからと捉えることが出来るでしょう。

 幼いときの記憶はだんだん色褪せたり、思い出せなくなっていくものですが、その中でも何故か思い出したり、夢に出てくるものがあったりします。また、成長すればするほどいろんなことを冷静に、客観的に、多角的に捉えられるようにもなります。それらが奇跡的に相互作用してなんでもなかった思い出から、あの頃の自分や、あるいは誰かの気持ちや考えに辿り着けたとき、その人にしか出来ない成長を果たし、名状しがたい達成感に包まれるのでしょう。

 もしかすると、あの日判り得なかった出来事は、存外幸せの鍵であるのかもしれません。

 

2018年8月10日 ばろっくどーなつ

死生

日々 拙くも 吐き出す歌、いつか見たような 夢。

永く 深い夜を超えるよ、

君に 逢えるように。

 

このまま ここで、じゃあね。

何もない日々へと、想いはとうに 逸れた。

 

忘れられるように!

 

それでも、君の声が呼ぶほうへ

踵を浮かして、さ。

いっそ笑い合い、消えようか。

そのほうがいい、よな。

 

坂の上には君が居て、僕を待ってるんだ、って、

誰に何度伝えたって、聞こえやしないんだ。

 

Φ

 

さよなら、と 手を振った、何もない日々へと。

明日は、そこで消えた。

 

思い出せる かい?

 

それでも、君の声が呼ぶほうへ

胸を弾ませて、さ。

いっそ 上も下も失くして、溶け合ってこう、ぜ。

 

あの丘の果て迄、

手首を隠して、さ。

きっと 笑い合い、消えてしまっても、

僕らは、

 

(古川本舗「魔法」より)

 

※以下は私個人の見解と感想であり、想像と推察の域を出ません。

☆私の見解

・See more glass

・「僕」は「君」と死別している。

・「君」の死からある程度月日が経過している。

・「僕」は「君」の死から立ち直ろうと努力したが、それは逆に自分にとって「君」がかけがえのない存在であることを気づかせた。

・「僕」は「君」がいるであろうあの世に行きたがっているが、躊躇っている。あの世にいくか、この世に留まるか、ではなく、あの世にいくか、まだあの世にいかないか、で決めあぐねている。

・少なくとも「僕」の側からは、この世にほだしとなる他者は存在しない。傍から見れば狂人で、「消える」ことも彼からすれば死ぬことではない。そう思えてしまえるほどに「僕」の中にはずっと君が居るのである。

 

☆表現とレトリック

日々拙くも吐き出す歌

→「僕」の気持ちを言葉にしようとして、「僕」としては捉えあぐねて納得のいっていない失敗作か。「僕」はこの果てない昇華を成就しないと半ば気づきながら続けている。

 

永く深い夜を超える

→夜は君を思い出してしまう辛い時間か。それを超えようとする試みを今まで、そして今も続けている。

 

君の呼ぶほう、坂の上、丘の果て

→今「君」が居るであろう、この世では無いどこかである。

 

忘れられるように!↔思い出せるかい?

→「僕」は、死別を乗り越えようとして、あるいは自分を守ろうとして「君」を忘れようとした。だが、そうすればそうするほど「君」への想いは募っていく。そして、この歌詞を書いている今、「君」を、「君」との日々を再度思い出そうと試みている。

 

踵を浮かして→胸を弾ませて→手首を隠して

→身体的な部分から精神に近い部分に推移していることから、より無意識から意識になっていることを表すか。手首は脈や命の比喩だとすれば、「僕」は生に対してもはや価値を感じておらず、それを超越しようとすらしている。

 

消えようか、上も下も失くして溶け合ってこうぜ、消えてしまっても

→君の居ないこの世への否定的な感情が読み取れる。おそらく「僕」は死を死と捉えておらず、この世から「消える」ことで君と再会を果たそうとしている。

 

僕らは、

→この世から「消える」ことで、君と再会できるかもしれないと考えているが、僅かな理性と、この世での人生が幸せであったかどうかを考え、結論を出せずにいる。これにより悲願を達成できずにいる。あるいは、筆者が死を肯定するような「僕」の結論を明確に示すことを避け、あくまでも結末を読者の想像に委ねたか。

 

魔法

→一つは「君」が「僕」にかけた魔法。「君」をどうしようもなく思いだしてしまえること。あるいは、「君」に逢いたいあまり、非現実的な考えまで至ってしまえること。

もう一つは、現実では理解し得ない現象。「僕」の思考と結論、境地。

 

死生

 この曲に出逢ったとき、たぶん本当の意味で、自分にとって音楽や歌詞が、かけがえのないものになったんだと思います。 

 私は物心つく前に母親と死別(おそらく病死)しており、それまでの記憶が殆ど、ありません。当時の自分はーー弱くて、現実が受け入れられなくて、だから、忘れることで自分を護ったんでしょう。当時の私はやはり悲しかったのか、ずっと泣いていたということだけは、父から聞いたことがあります。まァ、今となってはそれも思い出せないんですが(苦笑)。別にずっとそれを抱えて辛い、とか鬱屈な気分になる、というわけでもないし、父や祖父母からその穴を埋めるくらい大切に育ててもらったこともかけがえのない経験だと思うのです。ただ一つだけ。ふとした折に、今まで忘れていたお母さんを思い出せたら。今なら、きっと今なら、どんなにそれが辛くても、幸せなことに思えてならないのです。そんなふうにこの空白を抱えて生きていくんだろうなァ。

 

2018年8月9日 ばろっくどーなつ